こんばんわだっちょにょんかも~。
今日は真野ちゃんが尊敬する人物でもある「伊能忠敬」についての書籍をご紹介します。
「伊能測量隊まかり通る―幕府天文方御用」 渡辺 一郎 (著) こちらの本は彼の道中について、事細かく書かれています。
今まで知らなかった人間的な側面、測量隊の日常がわかり、大変リアルで面白かったです。
伊能さん。
歴史に詳しくない人でも「歩いて日本地図を作ったすごい人」という認識はあるかと思いますが、それ以上聞かれると「よくわからない」ですよね?
せっかくなのでものすごくざっくばらんに、伊能さんの一生をご紹介します。
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今から265年前、西暦1745年、バリバリの江戸時代です。
坂本龍馬の活躍まではまだ100年以上ある大昔。
千葉県の佐原、九十九里、小関家に忠敬は生まれました。
ぶっちゃけ結構いいとこの坊っちゃんです。周りに商人が多かったこともあって、父親から学問全般を学び、算術を得意としていました。
そういった知識を買われて、土木工事の現場監督とかやってたら、佐原村(人口五千人くらいのデカイ村)の二大勢力の伊能家に「おめえデキる奴だな」と買われて、17歳の時に婿入りすることになります。
その伊能家は米穀や酒造などをやってましたが、商売は相当傾いてました。
それを持ち前の商才によって見事立て直し、なんだかんだ村人への行政実績もあって30代半ばには村での第一の実力者になります。
また村人を天明の大飢饉から救った功績で、お国から苗字帯刀を許されました。
この時代、士農工商制度ですので「サムライ並の地位」って認められたんですね。
実はここまでで十分本にできるくらいの業績ある人なんですが、全国メジャーデビューはここからです。
アラフォーになった頃、伊能さんは思います。
イノゥ・)<そろそろ商売を息子に任せて、いっちょ何か後世に残せるでけえことをガーっとしたいぜ!
ずっと商売のかたわら、算術、測量術などを趣味で研究していた忠敬。
彼の次の知識欲は「暦学」に向かいます。
天体観測から暦を作る学問…まあ今風に言うと天文学です。
なかなか実現しなかったのですが、50歳の時ついに家業を息子に引き継いで隠居を果たし、さらなる専門的な勉強をするためにわざわざ東京の深川に引っ越しました。今だと定年退職後に大学に入るみたいな、やる気マンマンな爺さんです!
そして江戸で幕府の役人であり、天文方担当(暦学を研究する部門)の高橋至時(よしとき)さんと出会い、弟子入りします。その高橋くんは当時31歳。19歳も年下だったのですが、その豊富な知識に対して謙虚に教えを乞う伊能さんでした。カッコいいですね!
高橋くん的には、
川*’ー’)<どうせ老人の道楽やよ~
と思ってたようです。
が、伊能さんの異常な知識欲と学習量の前に、ついに門下生の中で第一の地位を与えるまでになり、この師匠との出会いが伊能さんの第二の人生を創りだしました。
さてそのころ「地球は丸い」ということは通説でわかっていましたが、地球の直径はまだはっきりとしていませんでした。歴学者の間では「緯度1度」の距離が正確に測れれば、それによって地球の大きさも算定できる、と考えられていましたが、誰もマジ実測した人がいなかったのです。なにしろ徒歩か船しか無い時代ですから、そんなマジパネェことそうそうできないわけで。
忠敬はその話を聞き、自宅の(江東区)深川から暦局のある浅草までを徒歩で測量し、この両地点の緯度の差と距離によって、緯度1度の長さを算出しようと試みました。
イノゥ・)<これで地球の大きさがわかるんじゃない、とか言ってw
しかし師匠の高橋くんは、
川*’ー’)<そんな短い距離では誤差だらけやよ、ちょっと考えがあるから待っとって!
その時代、日本はまだ鎖国してましたが、近海には外国の船が様子見に、交渉にと顔をだすようになってました。蝦夷地(北海道)にはロシアさんがオラオラとやって来てました。幕府としては今後の外交ために(有りうるかもしれない戦争のためにも)まだ未開の地、北海道の正確な地図が欲しかったのです。
そこで役人高橋くんは抜け目がありません。
「北海道の地図を作る」という名目で、緯度1度の長さを測ろうとします。
幕府の許可がなければ、他県(藩)への旅行すらできない時代です。
高橋くんは伊能さんを実行部隊の隊長に据え、その計画を幕府に提出しました。
川*’ー’)<彼なら大丈夫やよ~
伊能さんの測量技術、記録術に問題は無し。
隠居の身のため、めちゃくちゃヒマであり。
商売人としての経験からリーダーシップもある。
年の割には、ものすごい熱意の人でもあり。
そして何よりも、金持ちだったのです。
これが重要でした。幕府より「ん~じゃあ調査してもいいよ」と言われただけで、補助金が少ししか出なかったので、(初期の頃は)伊能さんがほとんど自腹を切って調査を開始したのです。
もちろん一気に日本全土を測量したわけではありません。
1800年に始まった第1次測量から第4次測量までの4年間は、春頃江戸を出て、秋に江戸に戻り、冬の間はデータ整理&地図作成と言ったスケジュールでした。
そして東日本の地図がなんとか完成しました。
それを見て幕府は、
( ;・e・)<ちょちょちょwwおまwwスゴすぎなのだ!
と茶を噴き出し…
( ・e・)<東日本は完璧なのだ!じゃ西日本全部作って来るのだ!
との指令が下ります。
…というわけで第5次測量からは国の正式事業に格上げされます。
天下御免、公儀の任務である「伊能測量隊」の誕生です。
伊能さんは「旗本」待遇レベルになりました。
今でいうとなんでしょうか。ただの一般庶民が、いきなり○○省○○局長扱いになったレベルかな?
経費はみんな国が出してくれる上に、ギャラも大幅に上がりました。
そして「幕府の命を受けている」ということで各藩で上等なおもてなしを受けました。
各地は「伊能測量隊が来るらしい」と情報が入ると、町村をあげての一大イベントとなったようです。
地図作成、というと地味ですが、当時は機材運びのトラックなぞ無い時代。
あらゆる全てを人力で賄うわけで、伊能チーム十数人と、各藩からの助っ人数十人から数百人が総出で、測量現場はまるで黒澤映画のロケ隊みたいな光景となりました。瀬戸内海の海岸線測量には、何十隻のもの船を出しての事業となります。
最終的に11年もかかって(最後は老齢のため実行部隊にはいませんでしたが)伊能さんはついに西暦1815年、全国の測量を終えるのです(蝦夷地は後年別の人がします)。その歩みは総計4万キロと言われてます。なんだかんだで距離的には地球1周してしまいましたw
その後もデータから地図編さんが続きますが、忠敬は老齢のため完成を見ることなく、1818年に地元で深川でその生涯を閉じます。
しかし彼の門弟はそれを発表することなく隠蔽し、地図の作成を続けました。
あくまでも「これは伊能忠敬が作ったものである」ということを世に知らしめたかったから、と言われています。( ;∀;)イイハナシダナー
伊能さんの死の3年後、門弟たちは大日本沿海実測全図(225枚)と大日本沿海実測録(14巻)を完成させて幕府に渡し、伊能物語は完結を見ます。
ちなみに名前だけはなんとなく聞き覚えがあるかもしれない「シーボルト事件」は、この「スゴイ地図」の後日談なんです。ご興味ありましたらググッてくださいな。
しかし真野ちゃんが伊能さんを尊敬する理由…なんでしょうね?
勉学に燃える心?
常に前向きな心?
夢を諦めない心?
私もアラフォー、アラファイになっても頑張りたいと思います!
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